平安時代の女流文学

表題を語るにあたり、大河ドラマ「光る君へ」を振り返ってみましょう。
文学に長けている父・藤原為時の家に生まれた「まひろ」(後の紫式部・吉高由里子)は幼い頃から文学に興味をもち、漢詩・和歌などに親しむようになります。父がまひろの弟に学問の講義をしているのを傍で聞いていたことで、学が身に付いていきます。ある日、少女まひろは逃がしてしまった鳥を探しに河原に出て、ひとりの少年と出会います。これが後の「源氏物語」の作者・紫式部と、時の最高権力者・藤原道長(柄本 佑)との最初の出会いになります。

清少納言との出会い
成長したまひろは15才の成人式を迎え、父のもとでさらに学問の才を高めていきます。ある日、漢詩の会が宮中で開かれるため父・為時と一緒に出席します。そこで清原元輔の娘「ききょう」(後の清少納言・ファーストサマーウイカ)に出会います。その会でまひろは参加者の漢詩の評価を任されますが、ききょうの反論を受けます。女性が漢詩を読むことが珍しかった時代に、自分の意見を堂々と披露することができるききょうに対し、まひろは一目置きます。ドラマの設定上は、ききょうの方が10歳年上ですから、この時点ではライバルというよりは、漢文学の先輩というところでしょうか。
それが後に、ききょうが清少納言と呼ばれ「枕草子」を世に送り出し、まひろに大きな影響を与えることになります。

道長との再会
京を騒がせていた盗賊を道長が捕らえると、賊は道長とまひろの親しくしていた散楽芸人の直秀たちでした。彼らは義賊でしたが、理不尽な死を迎えます。彼らの死を真近で体験したふたりは互いへの想いを深めていきます。恋文を送り続けた道長はまひろを呼び出します。彼女に夢中の道長は身分を捨てる覚悟をして、遠い国で共に暮らすことを告げるのですが、まひろは出世して政を行い、彼らのような下々の民を救えるよう国を変えて欲しいと道長を諭します。このようにまひろは道長を時の最高権力者へと導いていきます。
その後、宮中で和歌の会を開くことになり、そこには以前漢詩の会で意見を戦わせたまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)が招待されていたのでした。
ここでの二人は、学識と文才を高め合う良きライバルになっていきます。さらに「蜻蛉日記」の藤原寧子に行き会うことなどにより、自ら書くことによって己自身や読む人のこころが癒されることに気づき、筆を執るようになります。ここから才能と努力で生き抜いていく人生が始まります。

大河ドラマの後半
史実では清少納言に感化された紫式部は、清少納言が枕草子を完成した後に源氏物語を10年間に亘って書き続けることになります。当の道長も愛読者になり、続きを早く書くように急かし、そのために嵩む執筆費用は道長が援助します。
「光る君へ」では現在、越前守に任命された父と共に任地に赴いたまひろを描く越前編から、再び京の都へと舞台を移しています。二人の関係や左大臣になった道長の苦悩、そしてまひろは憧れの国である宋の人々と交流し、両国の言葉を操る青年・周明との邂逅がありました。幼いころから家族同然に接してきた藤原宣孝との結婚や、どのように道長の娘・彰子中宮のもとへ出仕することになるのか、さらは彰子に馴染まない一条天皇との仲をどうやって取り持っていくのか、今後の行く末は如何に・・・後半も楽しみです。
(写真はNHK大河ドラマ・ガイド「光る君へ」より)

枕草子と紫式部日記
ここからは「光る君へ」から離れて、清少納言の「枕草子」と紫式部の「紫式部日記」で平安貴族の社会に入っていきます。

枕草子
枕草子本文に入る前に作者清少納言の生い立ち、作者の名前の由来、平安時代中期の歴史的背景や経緯、枕草子を書いた動機、紫式部との関わりや比較などの大筋を見てみたいと思います。これらのことを把握することによって、より枕草子を理解しやすく面白さも出てくるのではないかと思います。
父・清原元輔の肥後守は万葉集などに訓点をほどこす学者であり、歌人でもありました。そんな才気に富んだ父の娘として生まれたのが清少納言です。そもそも名前の清少納言とは父清原の姓の清と宮中で仕えた中宮定子からの呼び名の少納言から清少納言といわれています。

この枕草子が書かれた基盤はなんといっても一条天皇の中宮定子に仕えたことによる7年間の貴族社会の宮廷生活で得た体験です。文化・風習・年中行事・人生儀礼を体験し、傍観したことを克明にかつ感想を書き記し、そこへ四季の自然観察を取り入れ、日記に類似した文集の随筆集になったのです。ですから源氏物語の貴族社会に繰り広げられた政治に絡んだ華やかな恋愛的な人間模様の物語(小説)とは大きく異なります。
枕草子の「枕」とは体で一番大事な部分の頭を支える大切なもの、よって清少納言がお仕えする大切な姫君、すなわち中宮定子を枕に例え、中宮様の教えや教訓と自然風景とを織り交ぜ記録した、大切な数多くの日記集が冊子であることから命名されたともいわれています。また、清少納言がある方から草子をもらったときに、この本は大切にして枕の下に大事に入れておきます、と言うような説もあるのが面白いですね。そのくらい清少納言は「枕」という言葉を重んじていたことが分かります。

枕草子の動機
大作「枕草子」の出現は何といっても清少納言がお仕えする中宮定子なくしては生まれせんでした。学識を見込まれて中宮にお仕えした時代の背景は平安時代中期、藤原兼家の政権時代で藤原氏の全盛期でした。こうした中、栄華のもとで一条天皇へ入内したのが定子なのです。この中宮定子によってさらに藤原氏の基盤が強固なものになります。それは中宮の資質によるものと、稀にみる美人であったことにもよるのだと言われています。そのうえ、高貴にして明るく才気に富む中宮へ11歳年上の清少納言が仕えることになるのです。

ところが、第1子(脩子内親王)を懐妊中に中宮の兄が出家した先帝・花山院を襲うという事件を起こします(長徳の変)。中宮の立場が悪くなり、宮廷を離れ出家してしまいます。そんな悲しみに暮れた中宮を元気付け、慰めようと清少納言が書いたのがこの枕草子なのです。しかし一条天皇は出家した中宮を愛し続け、やがて敦康皇子を生むことになります。一方、道長は出家した中宮の跡目に娘・彰子を送り込みます。そこで定子は皇后、彰子は中宮となり一帝二后が生じることになります。その後、皇后定子は第3子(よし子内親王)の出産時に悲運にも24才の生涯を閉じてしまうのです。清少納言はその後も枕草子を書き続けるのですが、皇后定子に関しては書かれなくなります。そうして書き続けた枕草子ですが、悲しみの時期については暗さを出さず、中宮時代と変わらず、あえて明るい感性で書いている点については清少納言の気丈夫な面が窺えます。枕草子を書き終えると清少納言は宮廷を去り、摂津で暮らします。それでは、枕草子本文へ入っていきます。

枕草子本文
第1段 春はあけぼの
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍飛びちがいたる。雨などの降るさえをかし。
秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへいくとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあわれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など。
冬はつとめて。雪の降りたるは言うべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきずきし。昼になりて、ぬるくゆるびてもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるわろし。

という書き出し文から始まり、第1段「春はあけぼの」から第323段の「わが心にもめでたくも思ふ事を」まで様々な分野を列挙し、日常生活の観察や宮廷回想と最後には自身についての随筆文から構成されています。
このように多方面から書いて定子を慰めている清少納言のこころづくしが分かります。また、この第1段に代表されるように枕草子は簡潔で分かり易く、素朴な文体が全段に共通しているところに親しみ易さと素晴らしさに魅力があるのだと思われます。

第11段 山は
山は 小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。かせ山。ひえの山。かさとり山こそは、いかならむとをかしけれ。
いつはた山。のち瀬山。ひらの山。床の山は、「わが名もらすな」と御門のよませたまひけむ、いとをかし。
美濃のお山。嵐山。・・・更級山。姨捨山。浅間の山。


更級山は信濃の更級(千曲市)にある聖なる山の冠着山。姨捨山は大和物語にも出てくる更級にある伝説の山(仏教寺院の長楽寺)を指しています。浅間の山は小諸軽井沢の活火山などいずれも信濃の山です。

第13段 原は
原は たか原。みかの原。あした原。その原

源氏物語の箒木の巻や新古今和歌集「園原や伏屋に生ふる箒木のありとは見えてあはぬ君かな」にも登場する、信濃下伊那地方の伏屋の園原は平安時代の頃から名が出てくる地名なのです。このように信濃の地名が身近に出てくると枕草子に一層の興味が湧いてきます。
ところで菅原孝標の女(むすめ)が書いた日記も信濃の更級地方のことを歌にしています。ところが内容は上総の国守としていた父と一緒に上京への道中が主体の日記なのです。その後作者は結婚し、夫が信濃国へ任ずることになりますが、作者は子供の養育のため京で留守を預かり、夫は単身赴任になります。任務を果たした夫は信濃から帰ってきたのですが、やがて病気になり亡くなってしまいます。この日記の最後の最終段の第34条「たそがれの寂光に姨捨の日々をいたわる」の段の中で最終の一句において、悲しみに暮れ夫の赴任地の思い入れが強い信濃の国の姨捨を思い浮かべ想像して「月も出でて闇にくれたる姨捨になにとて今宵たずね来つらむ」と甥が訪ねて来たことに絡めて更級の地を口ずさみます。ここに初めて姨捨という言葉が現れこの歌からここに更級日記の題名が由来します。


このような謂れのある地に生まれ育った私ですが、いつの間にか自ずと古典に親しみ興味を持つようになりました。また事実この地は「姨捨」と名が付きますがこの地ではお年寄りをないがしろにしたということはありません。あくまでも平安時代以前からの架空の伝説なのです。この地方はお年寄りを一番大切にしている「高齢者ファースト」の地ですので誤解のないようお願いします。

第3段の正月一日は。第110段の二月つごもり。第280段の三月ばかり物忌しにとて。など月ごとに一年を通しての見聞・体験・感想などを気の向くままに書き記した、いわゆる随筆文は単に史実や行事・風習を書き表しているだけでなく、地名・山・原・鳥・その他諸々のことを文章化しているところに魅力があります。枕草子は中宮定子のみならず平安女流作家にも驚きと感動に満ちた作品だったと思われます。これから第323段まで続くのですが少しずつ読んでいくといつの間にか最後の段に辿り着きます。

紫式部日記
はじめに紫式部日記を書いた紫式部の生い立ち、日記を書いた動機、そして清少納言との関わりや歴史的背景についてみます。源氏物語の作者は紫式部ということは周知のとおりです。父・為時は歌人としても文人としても有名でした。さらに遡ると曾祖父は三十六歌仙のひとりに数えられるほどの歌人でした。そんな家系に生まれた紫式部は少女時代から和歌、漢詩などに聡明だったのです。父の越前守の赴任に伴っての旅や異国の体験が、後の作家人生に大いに影響を与えます。その後、結婚したのですが、幸福の期間はわずか三年で夫が亡くなってしまいます。そのころから源氏物語を書き始めていた文才の紫式部に左大臣である最高権力者の道長が娘の中宮彰子への女房役にと声をかけます。

紫式部日記の動機
源氏物語を10年間に亘って書き続けていたのですが、なんといっても清少納言の枕草子に感化され、紫式部がお仕えしている中宮彰子についての随筆すなわち日記を源氏物語と並行して書くのです。清少納言の枕草子は宮廷を追われ出家した悲しみに暮れる中宮定子への慰めと励ましを書き送った日記で、貴族社会の文化・風習・行事の中へ四季の自然観察をとり入れて書かれているのに対して、紫式部の日記はお仕えしている中宮彰子の身の回りに関して、宮中生活のなかでの見聞きしたことの記録文なのです。皇子(敦成親王・のちの後一条天皇)の誕生とそれに伴って行われる行事や盛儀と中宮彰子の様子について、日付を追いながら貴族社会の生活様式を克明に描いている生活記録の随筆すなわち日記なのです。ですから枕草子と紫式部日記の違いがはっきり分かります。

紫式部日記本文
第一段 土御門邸の秋 寛弘5年(1008年)7月19日
秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いわむかたなくをかし。・・・おほかたの空もえんなるに、もてはやされて不断の御読経の声々あはれまさりけり。
(秋を思わせる色合いが一帯に立ち染めるにつれてここ土御門のお邸のたたずまいは、いいようもなく風情がある。・・・空一帯の様子も美しく深まりゆき、おりから低く響いてくる僧たちの不断経の声々も、しみじみと心にしみ入ることであった。)などと土御門邸(道長の屋敷)の風景や様子が書かれています。

また、中宮彰子の安産を祈願する前日の修験祈祷のありさまから、当日9月11日の朝に向かって安産を待ち望む人々など、次第に高まっていく土御門邸の緊張感が書かれています。その日の昼に若宮が誕生します。誕生にどよめく人々の安堵感や喜悦の表情が記されています。
誕生に伴って執り行われる産養(うぶやしない)の儀、お湯殿の儀、三日目、五日目の儀など次々と盛儀がおこなわれる一方、当の中宮彰子の様子も日付を追って書かれています。

父親の道長の様子も中宮彰子にお仕えしている紫式部ならではの筆使いで表現をしています。お産直前に安産祈願の念仏を唱える緊張の道長、安産を見届けると安心して庭の手入れする安堵の姿など道長の様子をよく捉えています。ここには権力者ではなく、ごく普通の父親と変わりない人間味が出ている姿なのです。初孫に相好を崩した顔、祝宴での上機嫌の様子など傍で仕えている紫式部の高い洞察力が窺えます。
こうした紫式部日記は第六十段まで続きます。このように平安時代の生活記録を記した作品は当時の文化・風習・行事の実態を知るうえで非常に貴重な作品であることが分かります。

枕草子と紫式部日記をはじめ蜻蛉日記、和泉式部日記、更級日記、源氏物語など平仮名による平安の女流文学の素晴らしさには計り知れないほどの感銘を受け、今から千年前の当時平安時代の文化・風習・行事を垣間見ることができました。
そして何といっても「光る君へ」の大河ドラマによって平安文学に接する機会を与えてくれたお陰で、あの華やかな平安絵巻の世界を体験できたことに改めて感謝したいと思います。
(写真の平安絵巻は「日本古典文学全集」小学館より)

硫黄岳(2,760m)・赤岩の頭(2,656m)

ここ信州もまだ梅雨入りの知らせはなく、ちょっとやかましい蝉が鳴き続いてる、そんな暑い日が続いています。
そこで涼を求めて、夏山シーズンが始まる前にサクッと早朝登山。硫黄岳に登ってきました。何度も登ったことはある山ですが、しばらくぶりなのでYoutubeでイメージトレーニング。駐車場、登山コースを予習しました。それと最近、里山に熊出没とのニュースがあるので、念の為、熊鈴もつけて出発。

先ずは駐車場の桜平を目指します。蓼科ビレッジから50分~60分かかります。入口は三井の森別荘地の幹線道路の一番上の突き当り、左が唐沢鉱泉、右が桜平、オーレン小屋に分かれるY字路です。そこを右に入り桜平の駐車場に向かいます。駐車場は上・中・下の3箇所あります。メインは駐車場(中)です。平日の早朝でしたら一番登山道に近い駐車場(上)に止めることができます。急勾配の林道で結構凹凸があります。できればSUV車が良いですが、私の前を走っていたのはプリウス、ゆっくりと走行し、(中)に駐車していました。

今回は、オーレン小屋→夏沢峠→硫黄岳→赤磐の頭→オーレン小屋の周遊コースを歩きました。オーレン小屋からの標準コースタイムは2時間40分です。オーレン小屋ー夏沢峠ー硫黄岳までの上りの道はとても良く整備されていて歩きやすかったです。

せっかく登った硫黄岳ですが、ガスがかかって全く眺望はなく残念でした。寒いくらいなのですぐ赤岩の頭のルートへ下がりました。するとガスが一挙に晴れ、南八ヶ岳の姿が挑めるようになりました。良かった!ここで阿弥陀岳を眺めながら朝食、まだ温かいオニギリを2個ほおばりました。

サクッと日帰り硫黄岳。鳥のさえずりを聞きながら気持ちの良い山歩きでした。(和)

装備:トレランシューズ ポール2本 雨具 ポカリスエット1本 おにぎり2個 エネルギー補給ゼリー1個

YAMAPの活動日記 下記の画像をクリックしてご覧ください。

硫黄岳・赤岩ノ頭 / 融牧さんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

6月11日は雨漏り点検の日

6月11日は暦の上で「梅雨入り」を意味する雑節の一つ「入梅」になることが多いことから『全国雨漏検査協会』が梅雨入り前に建物の雨漏りの被害を防ぐ目的で『雨漏り点検の日』を制定したとのことです。

ちょうど雨漏りに関する相談を受けましたのでオーナー様の許可を頂き、雨漏り点検の様子を紹介します。

約1時間放水をし実際に雨漏りがあるか確認をします。

点検箇所の下に敷いたダンボールに水漏れの跡はありませんでした。

 

ちなみに今年の暦上の入梅は6月10日(月)です。

皆様の山荘は大丈夫でしょうか?コンディションのチェックをお勧めします。

蓼科高原バラクライングリッシュガーデンに行ってきました

2024年5月21日にロンドンチェルシーフラワーショー会場にてバラクラ イングリッシュガーデンのオーナーである、ケイ山田氏がゴールドコミュニティー賞を受賞されたので、本日は蓼科高原 バラクラ イングリッシュガーデンに行ってきました。

入り口からはいるとすぐに藤の花が出迎えてくれました。

階段を降りると、緑に囲まれたアーチをくぐります、エリアごとにテーマがあり変わっていく庭を見ることができます。

ベンチに座り、空を見上げ庭を見回す。周りに人はいない、鳥のさえずる声と木が風に揺られる音が聞こえてくる。

時間を忘れゆっくりとすることができました。

是非、お立ち寄りください。

信玄の棒道を歩く

蓼科ビレッジのエリアに実在している「信玄の棒道」を歩いてみると戦国史上重要な役割と意義を持っていることが分かります。この信玄の棒道は実存する戦国時代の貴重な史跡でもある古道なのです。そこで信玄の棒道に因んでビレッジの立地している地元富士見・茅野・諏訪地域から始まって信濃全土に広がった戦国史を探索してみることにします。
戦国時代の争乱はそれぞれ各地の背景や経緯、戦略的思惑、婚姻関係、近隣武将との戦いや和睦の繰り返しなどが複雑に入り組み連鎖しているためそう簡単には理解できないところです。富士見・茅野・諏訪地域もその例外ではありません。では結果から遡って信濃と甲斐との戦いの歴史について「信玄の棒道」を歩きながら時代を追って史実の大筋をみてみたいと思います。

激戦地の境川合戦(大永8年 1528年)
諏訪大社下社大祝の金刺昌春が諏訪大社上社大祝の諏訪頼満との争い(永正15年 1518年)に敗れ甲斐の武田信虎に助けを求めたところから信濃諏訪と甲斐武田の因縁の戦いが始まります。金刺軍が武田軍に援軍を求めた境川合戦(富士見)は諏訪頼満・頼隆父子が金沢木舟に陣を構えると一方武田信虎は蔦木の小東に布陣し御射山神戸から境川(立場川)一帯において戦われ結果夜襲により諏訪軍が武田軍を打ち破り勝利します。勢いに乗った諏訪軍は河原辺合戦(韮崎)(享禄4年 1531年)に臨んだがここでは諏訪頼満軍は撃退されてしまいます。(この境川とは諏訪氏と武田氏が戦う以前の信濃(諏訪)と甲斐(武田)との国境が今の立場川でありこの立場川を当時境川と呼んでいたところから境川合戦といいます。)

諏訪・武田の政略結婚
このような諏訪氏と武田氏の度々の戦いは双方にとって得策でないと悟り、ましてや武田氏は強敵小田原の北条氏からの脅威もありお互いに諏訪氏と武田氏は同盟関係を結ぶことになります。その証に信虎は息女禰々(信玄の妹)を諏訪頼重(頼満は67歳で亡くなり長男も若くして死亡しているため孫の頼重が家督をとる)の正室として嫁がせたのです。やがて禰々は息子寅王丸の母となりますがこの可憐な母子には後に不吉な悲運が待ち受けているのです。禰々が嫁ぐときの持参金の代わりとして信虎が当時甲斐の領域である境川(立場川)から国界橋の釜無川までを割譲したことから現在の境界線となりました。その後頼重の先妻の息女は信玄に嫁ぎやがて息子勝頼(信玄の跡継ぎ)の母となるのです。これがいわば人質の交換であり政略結婚であったのです。
こうして諏訪・武田両軍は協力し合って各地の敵と戦いお互い力を付けていくのです。しかしこの同盟も長くは続かずまたお互いの身内同士の戦いを始めるのです。一方勝頼は織田信長の養女龍勝院が嫁ぎその後甲相同盟で北条氏政の妹北条夫人(桂林院殿)と結婚します。だが後に織田軍との戦いで信長によって敗れ名門武田家は勝頼が最後に北条夫人と共に滅亡してしまいます。こうした乱世の狭間で翻弄されながらも一族のために強く生き抜く戦国女性の姿を見逃すことはできません。
長篠の合戦(天正3年 1575年)の後勝頼の最後の戦いで甲斐の兵士たちは劣勢になると皆逃亡や謀反でいなくなってしまうのですが最後まで忠誠を誓い残って戦ったのは諏訪の郷里の兵士だけだったのです。というのも彼らは武田勝頼ではなくあくまでも諏訪勝頼として絶対的な信頼と尊敬をもっていたのです。地元諏訪の人びとの強い絆と連帯感は諏訪大社の大祭である御柱祭や夏の風物詩諏訪湖花火大会もその一つとしての表れなのです。このように強い絆は信仰心や伝統を守るという連帯感から素晴らしい郷土文化を生みそのなかから著名な文化人や文学者も出現し今も脈々と継承されているのです。

激戦地の瀬沢合戦(天文11年 1542年)
信玄が父信虎を追放(天文10年 1541年)し家督を継ぎ実権を握ったのが21歳の時であった。ところがそんな武田家の内紛に乗じまた信玄の若さにも付け込んだ諏訪頼重は小笠原氏との連合軍でこの時とばかりと甲斐に攻め込むが逆に撃退されてしまいます。翌年武田軍は信濃の村上・小笠原・木曽・頼重の連合軍と瀬沢(富士見)で激戦になり続いて桑原城の戦いから大門峠の戦いまでに発展し信玄を討つという信濃諸将の思惑に反し信玄に信濃侵攻の契機を与えることにとなってしまうのです。(この瀬沢地域に流れる武智川はその時の合戦で損害を受けた武田軍兵士の血で染まったという武血川から由来しているとのこと。)
この謀反に怒った信玄は妹禰々の桑原城主頼重を自刃させてしまいます。しかし禰々(信玄の妹)とその息子寅王丸は甲府で厚く庇護されるのです。しかし禰々は悲しみのあまり僅か16才で亡くなってしまいます。一方寅王丸は後に高藤・藤沢・伊那軍との宮川橋合戦(安国寺前合戦)で大活躍し信玄の信頼を得るのですが父の仇として暗殺を企てているとは信玄はこの時知る由もなかったのですが結局信玄に殺害されてしまいます。
そして信玄は小笠原氏の地盤の東筑さらに信濃の小県地方をも攻めあの真田氏領土をも支配領域下にしている信濃一の闘将宿敵村上義清(坂城)との戦いに上田原へと軍を進めるのです。父信虎の時代には村上義清とは同盟関係にあり真田幸隆を攻めていたのですが信玄の時代になると真田氏と武田氏は逆に同盟関係になります。これも当時としては存続をかけて領土と一族郎党や民を守るためには当時一番の得策(謀反・和睦・同盟)を選ばざるを得なかった群雄割拠の時代だったのです。

信玄の軍用道路
こうして信玄は敵地信濃の国へ奥深く進むのです。その信濃を攻略するためには甲斐からの軍隊・物資・食料・武器など運ぶのに迅速でしかも効率的な補給路でもある軍用道路が必要だったのです。小淵沢から富士見に続きこのビレッジの中にも残されている古道がこの時代のいわゆる「信玄の棒道」なのです。そう思うとこの蓼科高原も戦国史上重要な場所に位置していたことが改めて感じられます。こうして信濃の小県・上田原の戦いとその後上杉謙信との川中島の戦いへの重要な軍用道路ということになるのです。
一方この棒道はただ単に戦いのための道路でなく戦場に向かう兵士の悲愴な気持ちや、戦場へ見送る幼子を抱えた家族の切実な思いなど様々なドラマが詰まっている道でもあるのです。

上田原の戦い(天文17年 1548年)
宿敵村上義清は坂城の居城葛尾城を出発し上田原の西側で東側の武田軍と対峙することになります。中央に流れる産川を挟んで激戦が展開された。結果地の利を生かした戦いで戦術と武力に優れた村上軍の勝利となりました。結局武田軍は板垣信方・甘利虎泰等多数の重臣を失い信玄自身も負傷するという敗北に終わるのです。
そこで戦術と武力での正面からの戦いを避けた信玄は真田幸隆を使い内部工作により村上側の身内への切り崩し作戦に変えるのです。戦術と武力に長けていた村上義清もこの情報戦には負けてしまい戦うことなく越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡してしまいます。
義清の奥方は逃亡する際戦乱の世を憂いて前山の場所で尼さんになってしまいます。その山の断崖の上に化身となった比丘尼石(びくにいし)という尼さんの大きな姿の岩が佇んでいます。この村上家の逃亡の場面に関しては他にも史実と地元の伝説や逸話(千曲川に掛かる笄の渡しなど)が多々あり私たちを楽しませてくれます。ここから上杉軍と武田軍の戦いが川中島で始まることになるのです。

川中島の戦い(第4次の戦い 永禄4年 1561年)
川中島での戦いは実は5回も戦っているのです。一回目は村上軍が獲られた葛尾城の奪還のため上杉軍の援軍での戦いです。二回目は善光寺を巡る戦いになります。三回目は両軍にとっての重要な北信濃の攻防による戦いになります。そして四回目が激戦の川中島の戦いになるのです。ここで武田・上杉軍双方は最終的に決着をつけようという決戦に挑むのです。上杉軍の1万3千は妻女山、武田軍の2万(今川・北条軍の援軍を含む)は海津城(松代城)で対峙することになり霧の川中島八幡原において大激戦になります。

謙信と信玄の両雄の一騎打ちもあるのですが結局双方7千人もの戦死者を出したものの決着は付きませんでした。戦いで信玄の弟信繁・重臣の山本勘助らが戦死、勘助は体を切り離され仲間が持ち帰った胴体と頭を合わせたという場所が胴合(どあい)橋で埋葬地も長野インター近くにあります。戦い後両者は敵味方問わず一緒になって戦死者を集めて弔ったのですが何せ7千人ですから小高い丘のように積み上がり今でも首塚として古戦場公園に残っています。大損失を受けた両軍は甲斐と越後へ引き返すことになりました。さらに懲りもせず五回目の戦いは飛騨の争いに上杉軍が援護に出発すると武田軍も応戦のため出発し川中島で相対することになりますが双方とも結果が得られず引き上げその後は二度と川中島では戦うことはありませんでした。結局川中島での5回の戦いで両軍は痛み分けに終わったのです。
こうして両軍が信濃で争っているうちに中央では徳川と織田(豊臣)両軍は後に真田昌幸・信幸・信繁(幸村)親子を巻き込んで着々と天下取りを窺っていたのです。そして天下分け目の戦いの関ケ原合戦(慶長5年 1600年)になるのです。

信濃の戦国史
結果から遡って信濃の国をみれば上社諏訪氏と下社金刺氏とのいざこざがなければ諏訪氏と武田氏との境川合戦・瀬沢合戦から始まって、村上軍(信濃)と武田軍(甲斐)の上田原合戦さらには武田軍(甲斐)と上杉軍(越後)の川中島合戦へと発展することは無かったのではと思われます。少なくとも信濃の国が戦場になることは無かったかもしれません。また信濃の各地の武将も滅ぼされかつ領土も奪われることも無かったのではと反面では想像されますがその後の史実をみれば甲斐の国と信濃の武田領国は勝頼を破った織田信長によって平定され結局最終的には大坂城夏の陣で徳川家康の天下になってしまいます。

戦国の世を左右する諏訪の地
いずれにしてもこの富士見・茅野・諏訪地域は事実、戦国時代何度も戦いが繰り返された代表的な激戦地のひとつなのです。特に天正10年(1582年)は激乱の年になるのです。飯田・伊那・高遠を平定し杖突峠を越えて諏訪へ入った信長の長男信忠は3月3日戦いが終わっているにもかかわらず武田家と諏訪の人びとが心の拠り所として崇拝する諏訪大社上社に放火してしまいます。歴史は古く西暦が始まる頃と推定され全国に1万社もあるといわれ建御名方命を祭神とする総本社の諏訪大社上社を焼き払うとはいくら戦(いくさ)といえども織田氏はとんでもないことをするものですね。
武田勝頼の敗北後、武田家の領地分割について織田信長と徳川家康が諏訪大社近くにある法華寺において話し合いの場を設けたのですが(3月20日)、奇しくも勝頼の故郷で分割協議がされたとは皮肉なものです。また法華寺は織田信長と明智光秀との些細な出来事(3月19日~4月2日の間)が原因で「敵は本能寺にあり」の歴史を大きく変える大事件に起因したともされる寺院なのです。
そして諏訪大社上社が放火されてからわずか3か月後の6月2日信長は京都本能寺で長男信忠は二条御所で命が尽きるのも諏訪大社大明神の神罰なのでしょうか。
このように諏訪の地は戦国時代の今後の天下取りを左右する重要な地ということが分かります。一方徳川家康は焼かれた諏訪大社上社の再建に尽力をつくしたところから諏訪大社大明神が守護神となり徳川の江戸時代を長く続けさせてくれたのかもしれません。

法華寺
現在の法華寺は山門と本堂(廃仏毀釈後再建されましたがその後また放火で焼失し(平成11年 1999年)さらにその後再建した建物)だけですが江戸時代末の法華寺周辺絵図をみますと仁王門があり五重塔あり神宮寺があり普賢堂から大黒堂や鐘楼など山全体が広大な境内になっているのが窺えます。織田信長が滞在していた2週間(天正10年 1582年3月19日から4月2日)の間には徳川家康をはじめ多くの諸武将が兵糧や贈答品を持って信長のご機嫌を伺い忠誠を誓いに訪れたところからも信長の力を感じます。そのなかで北条氏政は本人が姿を見せず使者を送ってきたため信長の不興を買うことになり武田家の領地分割から外されてしまいます。このように政治の中心であるかのような法華寺でしたが明治維新で廃仏毀釈の仏教文化破壊により境内一帯の建物や寺、特に日本古来の神の信仰と外来仏教の信仰とを共存・融合・調和を理念とする神仏習合思想を持つ歴史上重要な神宮寺と共に廃寺され当時の面影の文化遺産を見ることができないのは残念なことです。

信玄の棒道
これら戦国時代の富士見・茅野・諏訪での史実とエピソードとが入り混まじった戦国の世の出来事に空想や想像も膨らみ興味は尽きることはありません。これらの戦記については富士見・茅野・諏訪のかつての戦場に巻き込まれた場所の方々から語り継がれた話を聞くことができ、またビレッジのスタッフからも豊富な知識と貴重なご意見を賜りました。このビレッジのエリアに戦国の歴史が実在する「信玄の棒道」は武田三代・徳川家康・織田信長・真田三代らの名将が活躍した戦国の世へと導いてくれます。その当時の戦国の世界へ逸る気持ちを抑え皆様方も今から500年前の激戦の戦国時代を馳せながら史跡の軍用道路「信玄の棒道」を歩いてみませんか。(高)

湯の丸高原とその周辺観光地

長野県の東側に位置している東御市は巨峰とクルミが有名な街です。

東御市と群馬県嬬恋村にまたがる湯の丸高原は浅間連峰の西側に位置し、その名のとおり、丸く穏やかな表情の峰々と、爽やかな亜高山帯の気候がおりなす一帯は「花高原」として親しまれています。有名なつつじ平のレンゲツツジ大群落は、国の天然記念物にも指定され、初夏6月下旬には湯ノ丸山の山肌を鮮やかな朱色の絨毯のように染め上げます。毎年レンゲツツジが満開の頃に、つつじ祭りも開催されます。                                   湯の丸高原 – 一般社団法人 信州とうみ観光協会 (tomikan.jp)

5月2日時点ではまだ蕾状態でした。

 

最近は高地トレーニング聖地 湯の丸高原として有名になってきています    標高が1750m~2000mある湯の丸高原には高地トレーニング施設、GMOアスリーツパーク施設湯の丸があります。

                                  高地トレーニング用プール施設、400mトラックがありアスリート養成施設になっていて、金メダリストもここで練習をしていたそうです。             400mトラックを走ってみました・・・

2回走ってみました・・・高地のせいかかなりつらい400mでいた((+_+))             2回目の方がちょっと早く走れました。                            興味のある方は問い合わせしてみてください。                          GMOアスリーツパーク湯の丸 (city.tomi.nagano.jp)               湯の丸トレーニングリゾート | (lumina-event.com)

湯の丸はハイキングやスキーなど年間通して遊ぶことができます

湯の丸スキー場★首都圏に一番近い天然パウダースノーリゾート (yunomaru.co.jp)

 

 

 

湯の丸高原に行ったらぜひ寄っていただきたいお店アトリエ・ド・フロマージュの紹介です。                                 アトリエ・ド・フロマージュ | 1982年創業。長野県東御市のチーズ工房 (a-fromage.co.jp)

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チーズが有名なお店で数々のコンテストで賞を受賞しています。                           工場と売店、レストランが併設されていて自家製チーズを使ったお料理が食べられます。                                   今回はスイーツを食べて来ました。

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普段は初めてのお店ではメニューの一番上を頼むと決めていますが、今回は店員さんのおすすめを聞いてフォンテーヌブローを注文しました。                  チーズとクリームのバランスが良くて大変美味しゅうございました。

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チーズソフトクリームも注文しました。                                 チーズ風味のなめらかなソフトクリームでした(゚д゚)ウマー

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東御市の温泉施設、湯楽館(ゆらりかん)に行って来ました

湯楽里館 | 東御市の高台にある日帰り温泉施設です。 (tomi-kosya.com)                       東御市の丘の上に建つ温泉施設でぶどう畑の真ん中に立ち、眼下に東御市・上田市の街並み、遠くに八ヶ岳・蓼科山・美ヶ原高原・北アルプスの山々を一望できる眺めの良い温泉です。                                         少しぬめりのあるお湯で 神経通、筋肉痛、関節痛、慢性消化器病 冷え性などに効くそうです

東御市は巨峰の生産が盛んで巨峰を使ったソフトクリームを食べました。                 巨峰の果汁入りソフトクリームは甘酸っぱくて美味しい(゚д゚)ウマーウマー

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湯楽里館には とうみワイン&ビアミュージアムが併設さてれいます                                      東御市で作られているワインとビールの紹介をしていて、試飲もできます。

湯楽里館ワイン&ビアミュージアム – Tomi wine & beer museum (tomi-kosya.com)

OH!LA!HOビールは地ビールが解禁された時に出来た醸造所です。         オラホビール OH!LA!HO BEER | 長野県東御市のクラフトビール (ohlahobeer.com)

東御市には ワイナリーがたくさんあるので試飲をしてみてお気に入りのワインをみつけてみてはいかがせしょうか。                       ワイナリー・ヴィンヤード一覧 | TOMI WINE STORY|東御ワインストーリー

蓼科から1時間くらいの場所なのでドライブにでかけてみてください。

蓼科の春

八ヶ岳は雪解けが進んでいます。

滝見平入口【4月22日(月)】

4月21日(日)TOYOTAガズーレーシングラリーチャレンジin八ヶ岳茅野が

開催されました。

聖光寺【4月22日(月)】

聖光寺【4月25日(木)】

今週末が桜の見ごろになりそうです。

源氏物語を読む

今年の1月7日からNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。今まで戦国時代ものが多かったのですが今回は平安時代ものでこれを機会に平安文学の源氏物語を読むことにしました。

光る君への作者は大石静で主人公紫式部「まひろ」を吉高由里子、「藤原道長」を後の左大臣として政権の頂点に立つ役に柄本佑が演じています。源氏物語は光源氏が主人公ですが光る君へは紫式部(まひろ)を主人公としています。「源氏物語」では光源氏が女性たちと恋愛を通して最後には恵まれた境遇へ導きますが「光る君へ」では紫式部(まひろ)が道長と恋愛を通して時の最高権力者へと導いていくように思えます。そんなところを光る君へのドラマと比較しながら源氏物語を読でみたいと思います。

源氏物語とは
源氏物語は平安時代4百年のうち中期に当たる時代に紫式部によって書かれた長編小説で現在まで1千年も読み継がれている不滅の国民文学なのです。平安貴族社会における独特のストーリーで左大臣や右大臣をはじめそれぞれの階級(摂政・大臣・公卿)等における政治・出世・権力・そして帝への世継ぎ争いのなかにいかにも女性らしい表現・感性・意識がまた男性の立場から書かれているところにも魅力を感じられます。主人公の光源氏は生まれながらの和歌・漢詩文の表現に才能があり皇子としての素質も素晴らしくまた内面的に強さもあるがちょっぴり弱さも備え恋心をくすぐる魅力あるそんな彼を取り巻く姫君たちとの恋愛姿のなかに出会いと別れと出家そして死別の生涯を写し出した人間模様の物語だと思われます。

貴族社会と紫式部
光源氏の誕生から生涯の出来事に日本の四季を通して宮中の儀式・慣習・生活様式・恋文の和歌のやり取りを取り入れた中に平安時代の一端を垣間見ることができるのも私たちに当時の貴族社会への想像をかきたてます。紫式部は女性らしく美しい四季を通した風情とそれに伴う草木の花に興味を示しそのなかでも紫色の花が特に好んでいたように思われます。というのは桐壺の上・藤壺の上・葵の上・若紫(後の紫の上)・夕顔・朝顔・藤袴そして何より紫式部自身にも紫を引用しているのです。それは唯一帝の后にしか着ることが許されない紫色の御召し物の小袿姿に憧れていたのではないかと想像されます。作者も貴族社会のなかの女性のひとりなので「願わくは」と思っていたのでしょうね。

平安時代の言葉
物語のなかで紛らわしいのは同一人物においてその時々によって名前の呼び方がいくつもあるということです。例えば光源氏は(皇子・若宮・源氏の君・光る君・六条院)藤壺の女御は(先帝の四の宮・后の宮の姫君・藤壺中宮・輝く日の宮)などです。それと源氏を取りまく人物相関図や姻戚系図も複雑なのです。平安時代の言葉や言い回しも独特な古語のため戸惑う面もありますが解らなくともいちいち気にすることはなく自分なりに読み続けていくと何となく文章が繋がって意味も分かるような感じがしてきます。古語といえども所詮日本語だと思えば気が楽になります。物語は源氏が歳をとるにつれてストーリーも進んでいくのでその点では分かり易いと思われます。また解釈は自己流で間違っている箇所もあると思われますがそこはご容赦願います。では古典ロマン最高傑作の平安貴族社会の世界に入っていきたいと思います。

桐壺
「いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらいたまひける中に、いとやむごとなき際にあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」(どの帝の御代の時であったか、女御(皇族や大臣家の娘)更衣(大納言家以下の娘)がたくさんお仕えしていた中に、たいした位の家柄ではない方で、特別帝に可愛がられていた方がおられた。)という書き出し文から4百字詰め原稿用紙だと約2千5百枚分の長編小説が始まります。やがて彼女は帝の后(桐壺の上)になり皇子(光源氏)が生まれます。しかし周囲からの嫉妬や嫌がらせ誹謗中傷に耐えきれず更衣出身の桐壺の上(源氏の母)は源氏3才の時に亡くなってしまいます。その後帝は妻に若い藤壺を后(先帝の第4皇女)に迎えます。源氏は亡き母(桐壺の上)に面影も気立ても似ている藤壺の宮を慕うのです。藤壺の宮もこれに応えるのでした。人びとはこの二人を「光る君」「輝く日の宮」と呼ぶようになります。やがて源氏が12才になり元服(成人式)になるのを待っていち早く左大臣は自家の将来を賭けて娘(葵の上)と結婚させるのですが4歳の年上に加え教養も気品も高く高貴な姿勢の姫君に馴染まず私邸の二条院に籠りがちになってしまうのです。そのため源氏はますます気持ちのなかでは帝の后藤壺の上に惹かれていくようになるのです。

箒木・空蝉・夕顔
五月雨の夜源氏(17才)が宿直(とのい)をしているところへ同じ年ごろの同僚たちが集まり四方山話をしているうちにそれぞれ自分の憧れの女性の話に花を咲かせます。これがいわゆる「雨夜の品定め」です。そんな話を聞かせられた源氏は妻の葵の上と馴染んでいないこともあってある女性に目が止まります。紀伊守の妻に憧れを持つようになりますが彼女は紀伊守の妻であるゆえ身の程のことを思い源氏と再度逢うことを拒んでしまいます。そこで紀伊守の妻を箒木(遠くでははっきりと見えるがいざ近くへ行くと分からなくなる)の草木に例えて「貴女の気持ちを知らないで近づこうとしたのですが箒木のように分からなくなり園原の路に迷ってしまいましたよ」と歌を詠んでいます。この箒木の帖(巻)において源氏物語のなかで唯一信濃の国が登場します。それは信濃の下伊那地方の園原の伏屋の森にある草木でいわゆる掃除に使う(ほうき)の木を紹介しています。当時国の等級が4階級あり信濃の国は上から2番目に位置し重要な国の一つでした。後に紀伊守の妻は転勤の夫と共に地方へ下ることになりお別れの形見に上着を源氏に差し出します。源氏はこの上着をセミの抜け殻と指し彼女を空蝉(うつせみ)に例え尽きることのない悲しみともの思いにふけるのです。ここに紫式部の女性らしい表現がみられます。空蝉は夫の亡き後、多くの下心ある男性に悩まされた挙句、尼さんになって出家してしまいます。
空蝉への悲しみの気持ちを引きずりながら五条に住む源氏の乳母への病気見舞いにでかけることにしました。道中垣根にみごとな夕顔の花が咲いている女性の家を見つけます。源氏はその女性をこの垣根の夕顔に連想してお目にかかりたいと申し出てお会いになります。だがその年の秋夕顔は突然物の怪に襲われ(左大臣家の頭中将との娘の玉鬘)を残して息絶えてしまうのですが源氏もまた悲しみのあまり病に倒れてしまいます。そんな源氏の内面の優しさや弱い面もあったのです。

若紫
18才の春、源氏は病気になり北山の聖のもとへ療養に行きます。そこである少女に出会います。その少女は源氏が思慕する藤壺の宮に似ていることに気づくのです。それもそのはず藤壺の宮の姪(若紫・後の紫の上)なのです。その若紫にお付き合いを望むのですが周囲の尼さんたちからあまりにも若すぎる幼い童女のため断わられるのです。やがて帰京する源氏は藤壺の宮に似た若紫を忘れられず帝の妻藤壺の宮を訪れ、こともあろうに逢瀬をもち懐妊してしまうのです。(この部分は現代文学志賀直哉の暗夜行路の主人公時任謙作の出生にまつわる人間関係に似ています。)懐妊を知った源氏は藤壺へお見舞いに行くのですが身の程を知る藤壺は会うことを固くなに断るのです。そんなこととは知らない父・桐壺帝は身重になった藤壺の宮へますます愛情を注ぐのです。途方に暮れた源氏は北山の幼い若紫を自分の私邸二条院へ同じ幼い年ごろの童女たちの仲間と一緒に遊ばせようと連れてくるのでした。

紅葉の賀
桐壷帝は祭りに身重の藤壺の宮にも息子源氏(19才)が踊る青海波という舞を見せようと連れ出します。しかし藤壺の宮は源氏の舞を心穏やかにまともに見ることはできなかったのです。一方二条院で無邪気に遊ぶ幼い童女の若紫を源氏の妻葵の上は幼い童女を嫉妬するのです。そうこうしているうちに藤壺の宮は皇子を出産します。桐壺帝は大変な喜びようで何も知らない帝はその男児を息子の源氏に抱かせるのですが当の源氏と藤壺の宮は全身が凍り付く思いで複雑極まりない心境あった。そんなことで源氏は子供の顔を見たいのですが二度と桐壺の帝へは行くことはできなかったのです。


賀茂神社の祭りでは源氏(23才)がその葵祭の行列に加わるということで妻の葵の上は牛車で見物に出かけます。この時葵の上は結婚して10年目にして源氏の子を宿しました。一方愛人の六条御息所(故前皇太子の未亡人で高貴な女性)も人目源氏を見ようと網代車で出かけます。ところが一条大路で鉢合わせになってしまいます。当然葵の上の車の方が格上で権力もあるため六条御息所(愛人)の車を押しのけてしまうのです。源氏はこの顛末を知り六条御息所(みやすんどころ)に同情をするのですが六条御息所の気は収まりません。収まらないどころか嫉妬が大きすぎ怨念となって葵の上に物の怪となって取り付いてしまうのです。やがて葵の上は男児(夕霧)を出産しますが物の怪が原因で亡くなってしまいます。源氏は後でこの物の怪は六条御息所の生霊だと知り愕然とするのです。ようやく葵の上との心が打ち解け始め妻としての優しさに気が付いてきただけに源氏は深い悲しみに暮れ亡骸を丁重に葬り四十九日間しめやかな喪に服します。六条御息所(京の町の六条の休息所の家に住んでいる愛人のこと)はそんな源氏の愛情に見切りをつけて娘の斎宮(伊勢神宮に奉仕する皇女)と共に伊勢に下ってしまいます。その後桐壺院は病気で亡くなり取り残された藤壺の上は後ろ盾がなくなってしまい、また源氏の恋情も避けるため出家してしまうのです。葵の上が亡くなった後は成人してからのあの紫の上(若紫・二条院の君)が妻となります。

須磨・明石
元桐壺帝の父が病気で亡くなり朱雀帝(桐壺帝と弘徽殿大后との皇子)の世になり源氏は官界に身の置き場がなくなってしまったのです。恋する藤壺の女御は出家し六条御息所は伊勢へ下ってしまい妻葵の上と恋を寄せた女性夕顔も亡くなり一人寂しく落ち込んでしまいます。そこで26才の源氏は父帝の御陵に参拝して京を去り須磨へ退去します。しかし須磨では暴風雨などの厳しい天候異変の気象のうえに怪しい夢に脅かされ気弱になっている源氏は明石の入道(出家し仏門の道に入った明石の君の父)の勧めにより明石に移ることにするのです。そこには入道の娘(明石の君)を一緒にさせたいとの思いがあったのです。源氏と明石の君は一緒に琴と琵琶を奏でさらに教養も高く品位もある明石の君を気に入るのです。そんな折、京では右大臣が亡くなり朱雀帝が退位の意向もあり次代の帝(冷泉帝)の後見として28才の源氏を召喚することになり帰京することになったのです。

澪標(みおつくし)
帰京した翌年世の中は朱雀帝から冷泉帝(藤壺との皇子)になり源氏(29才)は内大臣となり権力をもち始め一族は華やくのです。逆境に耐えた源氏一族の女性たちのためにも二条院の東院造営にとりかかります。やがて明石の君には女児が生まれ、源氏は后になる宿命を持って生まれた姫君だと喜び将来をかけて大事に育てるのです。その後成人した明石の姫君は朱雀院の皇子東宮の今上帝へ入内となりまた母(明石の君)とも一緒に住まわせるのです。源氏のこの志に明石の入道は感謝し思いが叶ったのです。女性のなかにはいかに素晴らしい源氏といえども女性には目がないなどとの世間の話もあり朝顔の君のように固くなに拒む女性もいたが婚約者(朱雀帝)がいても源氏に惹かれてしまう朧月夜の君もいた。そこで源氏は過去の女性たちに深く反省をするのです。いつぞやの六条御息所には不如意のままに終わった恋を詫びるため(亡くなってしまった六条御息所の娘の斎宮)に十分な後見を誓い冷泉帝に入内(秋好中宮)させるのです。また疎遠になった末摘花にも終生庇護を約束し廃屋同然だった邸宅は新築になり生気を取り戻します。出家した藤壺の尼さんには准太上天皇の女院につけるなど過去に恋憧れた女性たちに恋の償をして幸せにするのです。そんな源氏の澪標(身を尽くす)の気持ちが現れた帖(巻)でした。

玉鬘・初音
源氏34才、息子夕霧は元服を迎えます。また美貌と教養のある故夕顔の姫君である玉鬘(20才)は六条院(源氏)に迎えられ花散里(源氏の妻のひとり)のもとで生活をします。源氏36才の正月年賀の訪問に先ず妻たちの紫の上、花散里、明石の君、気になる女性たちの末摘花、空蝉、明石の姫君、玉鬘、などへと忙しい。ここでまた源氏は夕顔に似ている娘の玉鬘に心が奪われそうなところをしっかり者の妻の紫の上に見透かされてしまいます。やがて玉鬘は源氏や内大臣に次いで声望のある鬢黒の大将と結婚してしまいます。

藤裏葉
源氏39才の春息子の夕霧は内大臣の姫君雲居雁と結婚することになり二人はお似合いの夫婦なります。光源氏は准太上天皇となり子供3人のうち藤壺の皇子は冷泉帝・明石の娘の姫君は今上帝の后・葵の上の夕霧は太政大臣になり源氏は栄華を極める一家となるのです。源氏自身も紫の上と花散里・明石の君と共に穏やかな日々を過ごすのでした。源氏の生涯で若気の至りもあり多くの女性とお付き合いしたが最後はその女性たちに償い幸せをもたらすという作者紫式部の優しい思いを見逃すわけにはいきません。

若菜上・柏木
ところが源氏物語も藤裏葉の帖(巻)でハッピーエンドかと思いきやそうはいかないのです。源氏40才、もうここで女性関係は止めておけばよかったのですがまた元朱雀帝の第三皇女(女三の宮)とも結婚をするのです。ところがこの女三の宮が問題を引き起こして源氏を悩ますのです。それはかつて源氏が父・桐壺帝の后である藤壺の上と通じて皇子(冷泉帝)を授かったのと同じことが起きるのです。つまり女三の宮が柏木(太政大臣の息子)と通じて息子薫を生むのです。源氏自らが犯した罪の報いがこの歳(48才)になって身の上に降りかかってくるのです。結果女三の宮は責任を感じて出家してしまい、一方柏木も自らの過ちを悔いて病に倒れやがて亡くなってしまうのです。そこで源氏が薫を育てる羽目になるのです。


このように何人もの女性に囲まれるということは現代では考えられないのですがこれはその時代の婚姻形態や社会形態だったのですからそこは割り切って考えたほうがいいのでしょう。源氏51才の時最愛の紫の上が亡くなります。翌年の52才の年の瀬、紫の上の悲しみに源氏は「もの思ふと 過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世もけふや尽きぬる」(もの思いをしていて、過ぎてゆく月日を知らずにいる間に、この一年もわが人生も今日で尽きてしまうのか)と述懐し紫の上に先立たれ悲傷に暮れそのまま静かに来世(死)の道を開いていくことになるのです。

以上列挙してあるのはほんの一部の帖(巻)ですがさらに源氏が亡くなった後もまだまだ宮中の間では薫・匂宮・浮舟・女二の宮・六の君・中の君などと恋愛や結婚に絡んだ人間関係が出てくるのです。それはこの後の宇治10帖と合わせて全54帖をもう一度主人公「光源氏」の立場になって読み返すことにより作者紫式部の偉大さと源氏物語の奥深さに魅了され、いわゆる平安王朝における源氏物語の人間模様が古典ロマン最高傑作といわれる所以だと思われました。(高)