安曇野イルミネーション

先月の終わりになりますが、安曇野のイルミネーションを観に行きました。その日は、姪っ子達の面倒を見る日で誘ってみたら「行く!、絶対行く!」、「ラーメン屋さんもね」おまけが増えましたが、行くことにしました。
早めに安曇野についたので、先にラーメン屋さんへ。姪っ子達のお気に入りのお店です。メニューも豊富で、迷います。

この唐揚げが、美味しくて1皿追加してしまいました。
では、イルミネーション会場へ。

今年のテーマです。毎年違うので、どんな感じか毎年楽しみにしています。


他にもたくさん写真を撮りましたが、あえて載せません。
現地でぜひ、幻想的なイルミネーションをご鑑賞ください。これから雪もふりますので、お出かけされる方は気を付けてお出かけください。素敵なひとときを…

 

更級の姨捨山

更級の姨捨山

日本の名だたる古典文学の物語に登場している更級の伝説の山「姨捨山」と名月の名勝地で知られる更級の平安文学の地「姨捨山」へご案内いたします。

 

姨捨山へのアクセス

JR篠ノ井線の駅そのものの名前「姨捨駅」で下車。その姨捨駅自体が既に姨捨山のエリアなのです。そして、いわゆる姨捨山の長楽寺へは姨捨駅から徒歩10分です。明治初め諏訪の神宮寺と同様更級の神宮寺も廃仏毀釈のため消滅してしまったのです。この長楽寺は神宮寺の末寺であったが、かろうじて難を免れたのです。姨捨駅構内には伝説の姨捨について「むかしむかし」・「枝折・栞(しおり)」・「名月の田毎の月」のポスターやパンフレットはもちろん駅からの絶景美で皆様を歓迎しています。篠ノ井線は明治33年(1900)開通、駅からの眺望は四季をとおして善光寺平を一望できる風景と夜は東に対峙する鏡台山(山から昇る月の様子が鏡台の形に似ているところから呼称)から昇る名月を愛でることができます。「日本鉄道三大車窓」の一つとして上野発JR東日本の豪華寝台列車「TRAIN四季島」の観光列車のメイン停車駅にもなっています。食事しながらまたホームからの標高差551m足下に見るまさに宝石をちりばめた銀河の夜景美と夜空に浮かぶ名月の観月駅は観光客の皆様を魅了させてくれます。もちろんドライブで訪れる皆様にもこの風光美は十分堪能されるスポットです。高速道路では長野自動車道姨捨SAの姨捨スマートICを出た所です。または更埴ICからはR18号線より目的地姨捨駅への案内標識に沿って15分ほど進みます。

更埴の地名

高速道路の更埴(こうしょく)ICの標識はどのようにして名付けられたのでしょうか。県外の方からは「好色(こうしょく)」?ではと言われますがいいえそれは違います。史実は千曲川を挟んで西側は更級郡、東側は埴科郡だったのですが合併により頭文字をとって更埴(こうしょく)市になりさらに近隣の町村と合併し現在の千曲市になったという変遷を経ているのです。ですから千曲川の西側にある姨捨山は更級地域にありこの地区では伝説の地名と伝統を大切にして更級小学校・更級保育園・更埴IC・更級山・更級川など「更級」の名前を大切に引き継ぎ事実八王子、若宮、阿弥陀堂などゆかりの地名も実在しています。街なかでは名月堂(製菓店)、望月商店(青果店)、三日月屋(工務店)など生活の中にも文学の名残が溶け込んでいるのが分かります。さらにこの地域では平安文学を郷土の文学として身近に親しんでいるのです。

古典文学の地「姨捨」

では本題の姨捨山の歴史探訪に入っていきましょう。姨捨の地は一見何の変哲も無い普通の場所と思われますがなぜこれほどまでに文学的に歴史的・伝説的に日本中に広まったのでしょうか。それはいにしえの奈良時代の大和物語・万葉集から始まって平安時代の枕草子・源氏物語(宿木の巻)・更級日記に登場しさらに江戸時代では更科紀行の松尾芭蕉・虎杖等文人の俳句や歌川広重などの浮世絵の題材にもなっています。現代では歌謡ヒット曲千曲川(五木ひろし)なども加わり伝説の地「姨捨」はこうして日本中に広まり今日に引き継がれているのです。

次の3枚の写真は千曲市日本遺産推進協議会の「日本遺産月の都市千曲」からです。

大和物語(第百五十六段 姥捨)

「信濃の国の更級という所に、男すみにけり。この家に若くより姨そひてあるに、この姨いとう老いて、腰ふたへにてゐたり。(中略)この姨を深き山に捨てようと月のいとあかき夜、高き山の峰の、おり来べくもあらぬに,置きて逃げきぬ。「やや」といへど、いらへもせで家へ逃げて来ぬ。男、家で悲しうおぼえければ、かくよみたりけり。「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨て山に照る月を見て」とよみてなむ、また行て迎えもて来にける。それよりのちなむ、姨捨山といいける。」

このように奈良時代には既に伝説になっていることが分かります。

また姨捨山(冠着山)まで姥を背負って急峻な断崖絶壁を登って行くことは不可能であり実際には麓の長楽寺が姨捨山といわれています。

 

更に言い伝えではこの姥は山に捨てられる運命を知りながら、なお息子が帰り道に迷わぬよう案じ背に負われながら木の枝を幾つも折り道しるべ(枝折・栞・しおり)を置いていったという伝説もあります。栞(しおり)とは読みかけの本の間に挟みまたすぐに読み続けることができるようにとの目印で語源は枝折から出ているとか)また、他にも敵の隣国からの攻略の口実に「勾玉に糸を通せ」・「灰で縄を編め」などの難題をここの老人の知恵と知識によって国難を守ったことなどこの地は民話の宝庫なのです。

万葉集(第3400番)

この更級では姨捨山のような悲しい話ばかりではありません。姨捨山から見おろす千曲川には古典ロマンの文学も存在しているのです。万葉集の中に収められている歌を記念して千曲川の畔に万葉歌碑が建てられています。

「信濃なる 千曲の川の 小石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ」

(信濃の千曲川にある小石を恋する君が踏んだものならば大切に宝として拾います)

恋愛のほのぼのとする句ですね。このように更級の地は古典時代からの文学に富んでいる里ということが分かります。

 

ところで万葉集とは何なのでしょうか。奈良時代から平安時代初期に詠まれた歌を日本中から集めたもので天皇の作歌から始まって貴族・防人・僧侶・童女・庶民など様々な階層からの多様な内容の歌が入っています。後の平安文学作家はこの万葉集を常に意識することになるのです。この万葉集とはよろず(万)の言の葉(歌)を収集したもの。また、万葉(万世)までも伝わって欲しいとの意味が込められ題名とされているようです。

 

枕草子(第11段 山は)

作者清少納言の平安中期の枕草子は定子中宮なくしては生まれなかったのです。清少納言は学識を見込まれて一条天皇の中宮定子が女房となった時から亡くなるまでの間お仕えします。中宮定子の兄が花山院を襲撃するという事件を起こしたため妹の定子は宮中を追われ出家してしまいます。そんな境遇になった定子を慰め元気付けようと書いたのが枕草子なのです。内容的には日常生活の観察記録の日記的なものや宮廷回想の随筆的なものから地名・鳥・虫・植物・山・峯・原など様々な分野を取り入れ書くことによって定子を喜ばせたのです。そんな一節の第11段「山は」において更級山・姨捨山を奈良時代の大和物語の伝説から登場させています。

 

源氏物語

源氏物語は母(桐壺の上)を幼少の頃喪った光源氏の物語として始まり、母の面影のある女性に憧れるようになり、帝(父)の次の妻藤壺の上に惹かれるようになります「桐壺の巻」。政治・権力・出世のなかで源氏は何人かの女性とお付き合いがあるのですが総じて母の桐壺の上に似ている女性が多かったことが分かります。源氏も階級が上になると過去に恋憧れた女性たちに恋の償いとして彼女らに相応の身分や生活を与えここに源氏の優しさの一面が窺えます「澪標の巻」。そして光源氏は准太政大臣、3人の子供たちも藤壺の皇子は冷泉帝・明石の姫君は今上帝の后・葵の上の夕霧は太政大臣と栄華を極める一家となります「藤裏葉の巻」。だがやがて最愛の妻(桐壺の上に面影がある)紫の上が亡くなり野辺の送りは、折しも中秋の名月の夜だったのです「御法の巻」。だが源氏の目には月も日も無かったように源氏は深く悲しみに暮れその翌年妻の紫の上を追って来世へと向かうことになります「幻の巻」。

 

(宇治十帖・宿木の巻)

その後宇治十帖において源氏の死後は源氏と明石の君との間に生まれた娘・明石の姫君には今上帝との間に生まれた匂宮がいた。その匂宮は桐壺帝の第八皇子・八の宮の娘である中の君と結婚し懐妊もする。一方源氏と葵の上との間に生まれた若君夕霧には夕霧の娘・六の君がいた。また匂宮はその六の君とも結婚する。このような複雑な相関関係は現代では考えられないのですが当時の社会形態だったのです。やがて匂宮は中の君から気持ちが離れ中の君との夜離れが続き六の君へと傾いていくのでした。

そのような中の君の心情は「今宵かく見棄てて出たまうつらさ、来し方行く先みなかき乱り、心細くいみじきが、わが心思ひやる方なく心憂くもあるかな。」そして「姨捨山の月澄み昇りて、夜更(ふ)くるままによろづ思い乱れたまふ」と姨捨山の月を想い眺めながら、心の不安や悲しみを表していることに代用しています。このように平安文学を代表する源氏物語にも月の姨捨山が登場してくるのですからこの時代からも姨捨山はいかに有名であったのか分かります。

左大臣藤原道長の娘で一条天皇の彰子中宮に仕えている紫式部と赤染衛門も月を見て小倉百人一首に詠んでいます。

めぐりあえて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな(紫式部)

やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門)

更級日記

また菅原孝標の女(むすめ)の更級日記にも姨捨山が登場してきます。作者の夫が信濃国へ国司として任ぜられることになります。やがて任務を全うし都へ戻りさらに要職につくはずの夫が病気になり亡くなってしまいます。幼子を抱えたこの作者の悲しみの胸中はあまりにも察するところがあります。悲しみに暮れ夫の赴任地の思入れが強い信濃の姨捨山を想い浮かべ「月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ」と身内の甥が訪ねて来たことに更級の姨捨を口ずさみます。さらに十月ばかり月のいみじゅうあかきを泣く泣く眺めて「ひまもなく涙に曇る心にもあかしと見ゆる月の影かな」(次々と流れる涙で曇り何を見ても慰さまない私の心だがその心にも今宵の月は夫の見た姨捨の月のように明るく澄んでみえることよ)と更級の姨捨山の月を詠みここから更級日記と題名されています。

 

ところで当時信濃の政治文化の中心であった国府はどこにあったのでしょうか。行政の国司が中央から派遣され政務を司る国府は上田の国分寺がある小県地方とされていたが後に筑摩地方に移転され今の松本の惣社辺りではないかとされていますが、この更級日記にも信濃の国へ赴任したと記されているだけで残念なことに特定の地域までは書かれていません。また現在においても歴史学者は研究していますが確固たる史料も証拠品もなく不明なのですがこのように歴史にロマンがあるのもこれはこれで良いのかも知れません。

 

更科紀行

江戸時代には松尾芭蕉の紀行文によって名月と姨捨山を俳句にした伝説の姨捨山が紹介されています。

「さらしなの里、姨捨山の月見ん事、しきりにす々むる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云う。木曽路は山深く道さがしく・・・。」このように俳諧の仲間を伴って美濃国から木曾路を通り松本から明科・麻績より更科の姨捨を目指した更科紀行が始まります。ようやく目的地にたどり着いた八月十五日夜、姨捨の名月をしみじみ眺め(何ゆえに老いたる人を捨てたらむと思ふにいとど涙おちそいけれながら)有名な句を詠みます。

「俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友」(この山で捨てられた姨の悲しい伝説を想っているとその姨が現れて、ひとり泣いている。俤に現われた姨を月見の友として名月を眺めることである。)

「いざよいもまだ更科の郡(こほり)哉(かな)」(八月十五日夜の名月を名所姨捨山で眺めたが、帰り途の翌日の今宵、十六夜の月もまた更科の里(「坂木」(坂城)との境)で眺めることができた。なんと幸せなことであるかな)と伝説の山と月を後世に残しています。

竹取物語

月に因んだ文学で直接姨捨山に関連している物語ではないのですが姨捨山の月に例えている物語を紹介してみます。それは皆様もよくご存じの竹取物語です。

「いまはむかし、竹取の翁というものありけり。名を讃岐のみやつことなむいいける。野山にまじりて竹をとりつつある。その竹の中にもと光る竹なむ一とすじありける。そのなかに三寸ばかりのなる人、いとうつくしうてゐたり。」そこで翁は家に連れて帰り媼と一緒に育てることにするのでした。次第に成長し世にもまれな美人となり「かぐや姫」と名付ける。この噂を聞きつけた若者たちはかぐや姫に求婚をするのですがことごとく断られるのです。やがて帝の耳にも入ることになるのです。帝は早速入内(じゅだい)を勧めるのですがかぐや姫は一向にその気はなくお断りするのです。何故にこのような良き話を断るのかと帝が尋ねるに「私はこの世の人ではありません月の国の者です。」さらに「八月十五日の望月の夜、月から天人が迎えに来て私を連れ去り天女として昇天してしまうのです。」それを聞いた帝は対策を考えるのでした。早速二千人もの兵士を翁の家の周りや屋根に配備します。「やがて子の刻(午前零時ごろ)家のあたり、昼の明さにも過ぎてひかりたり。望月の明さを十合わせたるばかりの中を天人、雲に乗りて天の羽衣と不死の薬を持って降りてきたり。」その光を浴びた兵士たちは不思議にも力が抜け何の抵抗もできなくなってしまうのです。天の羽衣を着るということは今までのことは一切忘れて無情にも月へ帰るということなのです。最後にかぐや姫は翁と媼そして帝に今までのお礼を告げます。「今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあわれと思ひいでける」(今はこれで天の羽衣を着る時になりあなた様方のことをしみじみと思い出している私です。)そして不死の薬を差し出すのですがそこで帝はすかさず返答します。「あふこともなみだに浮かぶわが身には死なぬ薬も何かはせむ」(かぐや姫に二度とあうこともないゆえに涙の中に浮かんでいるような我が身にとっては不死の薬などなんの役にたとうぞ)と返答するや否やかぐや姫は羽衣を着せられ翁、媼の号泣の中何の感情もなく何事もなかったかのようにそのまま月の世界へ昇っていくのでした。その後帝は駿河の国の一番高い山へ武士のなかでも一番「力に富んでいる士」を登らせ「不死の薬」を燃やしてしまいます。そこから「富士の山」と名付ける。

この文中で「昼の明さにも過ぎてひかりたる。その月は望月の明さを十合わせたるばかり」とありますがおそらくこのかぐや姫の昇天の情景は姨捨山のすばらしい月に例えているようにも思われます。

 

小林一茶

「名月を取ってくれろと泣く子かな」と詠んだ場所は姨捨山とは違うと思われますが月に憧れるこの句は江戸時代の信濃の俳人小林一茶の有名な句の一つなのです。

このように古代から人々は月の偉大さと美しさに憧れ願いを込め崇拝の念を持って歌や物語に表し後世に残しているのです。

 

歌謡曲・千曲川

作詞・山口洋子 作曲・猪股公章 歌・五木ひろし

 

水の流れに   花びらを

そっと浮かべて 泣いたひと

忘れな草に   かえらぬ初恋を

想い出させる  信濃の旅路よ

 

明日はいずこか 浮雲に

煙たなびく   浅間山

呼べどはるかに 都は遠く

秋の風立つ   すすきの径よ

 

一人たどれば  草笛の

音色哀しき   千曲川

よせるさざ波  くれゆく岸に

里の灯ともる  信濃の旅路よ

 

万葉の時代以前から伝説の文化と歴史をもつ姨捨山を背景に悠久に流れる千曲川を舞台に想い寄せるさざ波と暮れ行く岸で想いでのさざれ石(小石)を見つめながらの詩は万葉時代も現代の今も変わらぬ恋の物語を見事に歌い上げています。この歌は日本レコード大賞最優秀歌唱賞・日本有線大賞などを受賞しています。これらの姨捨伝説は大和物語や万葉集の奈良時代から平安時代の文学を経て江戸時代の俳諧文化さらには今日の一般大衆の人々の心の中に千曲川の流れが途絶える事がないのと同じように姨捨山の伝説も永遠と続いているのです。

また、姨捨山周辺には今でも五十基もの二十三夜塔が点在し特定の月齢の夜、経など唱え人々の心の拠り所を月に拝む「月待ち行事」を行い、悪霊を追い払い頼み事や願い事を月に縋る日本人の心の原点を求める信仰も盛んだったことが窺われます。

今年の中秋の名月は9月15日ではなく17日でした。姨捨山には多くの観月の人たちや平安文学に憧れた子供から大人まで大勢のフアンの人、人、人でいっぱい。自分も平安の世を想いながら人々に交じって姨捨山からの満月を眺めることができました。翌日の十六夜の月は曇りがちの夜空で残念ながらお預けでした。負け惜しみに「花は盛りに月は隈なきものを見るものかは」(徒然草)を引用して逆らってみました。

一千年以上もの文化の中に月を想う人々の気持ちや言い伝えが時を超えて受け継がれ、平安文学を取り入れた当時と変わらない更級の「姨捨山」に伝説の俤がいざなう月の世界を銀河鉄道でまた愛車で夢追いの地へ訪れては如何でしょうか。(高)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蓼科ビレッジの某社員の休日

昨今、働き方改革と言われていますが、蓼科ビレッジは以前から有給休暇を取りましょう、長期休暇を取りましょうと推奨していました。
長期休暇を使って、趣味の旅行に出かけたお話です。

よく日本三大○○と言われる名所、、観光地、景色、があります。           その中で個人的に興味がある「日本三大がっかり名所」のお話です
日本三大がっかり名所は札幌市 時計台、高知市 はりまや橋、長崎市 オランダ坂と言われています。
その中の「オランダ坂」に行きました。


オランダ坂とは、長崎県長崎市にある石畳の坂道のことです。大浦天主堂やグラバー邸など、外国人居留地跡に残された坂道で、当時、日本にいた外国人を「オランダさん」と呼んでいたことから、この地区の坂道が「オランダ坂」と呼ばれるようになったと言われています。
実際に見て・・・思ったより短くて急な坂道でした。
途中にカフェや資料館、学校などがありました

オランダ坂の途中にある趣のある洋館

かなり急な坂道でした

昔は建物がなかったから 出島が見えてそこからオランダにつながっていると思わせたんだろうな~と思いました。思ったより短くてオランダ坂というネーミングで期待してしまいちょっと期待外れなのかな?そういう点で、がっかりと言えばがっかりな名所かな・・

 

 

長崎市でもう一つ有名な観光地に行って来ました

日本の廃虚で、殿堂入りしている日本一有名な廃虚、軍艦島「端島(はしま)」に行ってきました。

端島(軍艦島) | 観光スポット | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット

 

 

長崎港から南西約20kmほどの海上に浮かぶ、面積6.3ヘクタール(東京ドームの1.3倍の大きさ)ほどの無人島。正式名称を「端島」といいますが、外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。明治時代には石炭採掘で栄え、そこに住む人々は日本の近代化を支えてきました。
島内には様々な建物が立ち並び、約5300人もの人々が暮らしていたようです。当時の人口密度は世界一だった軍艦島ですが、1974年に閉山し、無人島と化しました。

観光船で一部のみですが、上陸して島を散策できます。

観光船以外は立ち入り禁止で注意事項が多いです

桟橋からの上陸です。

マンションの朽ち具合が何とも言えななくていい感じです。

 

 

 

廃虚となってる建物がいい具合に朽ちていてなんとも言えない雰囲気ですばらしかったです。

最後に島を周遊して寄港しました

最後に 軍艦島上陸証明書をもらいました

軍艦島は島の形が本当に軍艦に似ていて見ていてかっこいい島で、昔の繁栄と今の廃虚のギャップが萌えました。

テレビやSNSやバーチャルで映像は見れますが、現地に行って見る風景はまったく別物なので、これからもいろいろ行ってみたいと思います。

 

次は 九州で、列車に乗ってみたを投稿したいと思います(2020年)

 

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特急「かわせみ やませみ」と特別急行列車「いさぶろう・しんぺい」

 

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特急「かわせみ やませみ」

 

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特別急行列車「いさぶろう・しんぺい」

つづく・・・

 

深まる紅葉2024

最近の風雨で落葉が進んでしまいましたが、昨年に引き続き、11月でも蓼科の紅葉を楽しむことができます。これまでは10月中旬が見ごろでしたが、もしかしたら今後、蓼科の紅葉の見ごろは10月下旬~11月初旬になっていくのかもしれません。

【蓼科ビレッジこぶし平】標高約1,620m

【横谷観音周辺】標高約1,550m

【御射鹿池】標高約1,500m

【旧管理事務所付近】標高約1,320m

蕎麦 「傍~katawara~」

秋といえば蕎麦、蕎麦といえば信州
ちょっと気になっていた蕎麦屋さん「傍 katawara」でランチしました
エコーライン沿いにあるお店です。手前にある蔵が目印です

この時期、蕎麦屋は混んでいる
今日は平日の月曜日ですが、もう待っている人がいる
広めの駐車場があります。名前を書いてゆっくり待ちましょう

私は蕎麦とローストビーフ丼の小鉢のセットを頼みました
まずは、昼ビール


最初に白い蕎麦、続いて黒い蕎麦
蕎麦つゆは二種類、甘め濃厚なそばつゆとあっさり系のトマトつゆ
トマトつゆはオリーブオイルを少したらしていただきます


ローストビーフ丼の小鉢
かわいいサイズです
ローストビーフの下には天かすと穂紫蘇?
さらにタレをかけていただきました
美味しかったです

最後に蕎麦湯

モダンな蕎麦屋さん 満足でした(和)

HP
https://www.applenoodleinc.work/

ACCESS
https://www.applenoodleinc.work/access


ロマン的な地名を山歩き

秋晴れの中ロマン的な地名の場所を八ヶ岳・蓼科・白樺・車山・霧ヶ峰高原の大自然を満喫しながら散策へと出かけます。

出逢いの辻・五辻
メルヘン街道の麦草ヒュッテから茶臼山へ火山岩の登山道を進み旧大石峠の標識を左に折れ一面黄色を敷き詰めたオトギリソウの草原を狭霧苑からピラタスロープウエイへの歩道にぶつかるまで大自然の中を歩きます。この場所を出逢いの辻(交差路)といいます。偶然に出会いがしらに登山者同士が出会った所なのでしょう。何か若者たちのロマン的な出会いの場を想像します。辻とは今でいう交差点のことです。時代劇でいう辻斬りとは街角の強盗という意味です。山野の草原に自生するこのオトギリソウは薬草の秘薬なのです。この薬草を見つけた兄弟は二人だけの秘密にしていたが弟が他人に漏らしたのを兄が怒り弟を切り殺してしまったのです。そこから弟切草(オトギリソウ)といわれます。出逢いの辻をピラタス方面に足を運ぶとシラビソ林の鬱蒼たる針葉樹林帯の中に東屋が目に入ります。登山ブームの当時は縞枯山からの登り下りの道と狭霧苑からピラタス方面などへの五差路になって五辻と呼ばれこの東屋で一休みの憩いの場所だったのですが今は三差路だけになっています。

おしどり隠しの滝・乙女滝
出逢いの辻から戻りメルヘン街道から渋川の流れ下る横谷渓谷へ入ります。横谷渓谷には趣が異なる滝がいくつも連続する渋川の幽谷を歩きます。苔が密生する岩盤の表面を流れ落ちている優しい名前の「おしどり隠しの滝」を初め「霜降りの滝」など多様な滝があり最後には「乙女滝」。名前は優しいがビレッジの中を流れる大河原堰がこの渋川に落ち込み空中を弾き落ちる様子は名前とは裏腹に壮大な景色を造りだしています。

女の神山
ビレッジの滝見平の横谷渓谷から蓼科湖を通り滝の湯川沿いを上り詰めビーナスラインに出てすずらん峠を目指します。すずらん峠には蓼科山登山コースが目の前に伸びています。この登山口の広場の一角に女乃神茶屋がありここで登山の装備を点検し一休みします。蓼科山は別名諏訪富士とも女の神山(めのかみ山)とも呼ばれていました。この登山口の山小屋茶屋は女の神山に因んで女乃神茶屋と命名されたのでしょう。現在呼ばれている蓼科山も良いけれど女の神山という名前もやさしさがあって癒されます。明治期の歌人であり「野菊の墓」の小説家でもある伊藤佐千夫も女の神山と呼びこよなく愛していたのです。ところで蓼科山は八ヶ岳連峰の北の端に位置していますが八ヶ岳連山ではなく単独の独立峰なのです。形成はコニーデ型火山の上にトロイデ型の火山が載っている山なのです。つまり蓼科山は二度の噴火により現在の形になったのです。当時火山期の激しさが分かる気がします。

女神湖
蓼科山(女の神山)を美しく湖面に映し出す湖が女神湖です。白樺高原のシンボルとしてのこの湖は大自然に恵まれまれ森閑とした静かな林に囲まれ名前の如く女神が存在するような所です。四季を通して早春のザゼンソウ、初夏のレンゲつつじ、秋の紅葉、冬の白銀の世界へと女神に誘われて多くの若者たちが訪れる観光のスポットです。この女神湖は蓼科山火山の火山湖と思っていたのですが実は人造湖で立科町への貴重な水源になっているのです。

ビーナスライン
女乃神茶屋の前の観光道路ビーナスラインは蓼科高原から美ヶ原高原までの全長76kmを走り日本のなかでも絶景の景観を誇る有数の山岳観光ドライブルートです。その移り行く見事な景色を楽しみながら車山・霧ヶ峰高原へと進みます。このビーナスラインもやさしい名前です。このビーナスラインはギリシャ神話の美の女神(ビーナス)の名前から由来されているとのこと。緩やかなラインが草原の中を走り抜けていく様子はまさにビーナスラインと呼ばれる所以です。2IN1スキー場にビーナスラインの女神が佇み微笑んでいましたので写真を撮らせてもらいました。

約束の丘
白樺湖を左に見てビーナスラインを車山・霧ヶ峰高原方面へと進みます。ビーナスラインの中間辺りにある車山肩からコロボックルヒュッテの横を通り車山湿原の真ん中の木道を夫婦岩のある車山乗越へと目指します。左折の蝶々深山へは次回の楽しみにして今日は直進し山彦尾根へ入ります。やがて殿城山(1800m)への分岐点あり右に折れ殿城山を目の前にして進みます。その殿城山への中ほどに緩やかな丘に差し掛かります。この丘がいわゆる約束の丘です。登山者同士がここでお互いに行き会い山の話などに花を咲かせ、またいつの日かここでめぐり逢いましょうと約束をし合ったのでしょう。そんなところから素敵な名前の丘になったのですね。ここには「約束の丘」という立て看板があったのですが何年かぶりに来たところ残念なことに象徴の看板は朽ちてしまっていました。

忘れじの丘
約束の丘を後に霧ケ峰高原の強清水まで行きます。霧ヶ峰の霧は水蒸気を多く含んだ空気が諏訪湖から吹き上げ諏訪湖より一千メートル上にある霧ヶ峰高原で急激に冷やされた水蒸気が凝結され霧が発生するということです。そんな濃霧の日には鐘を鳴らしてハイカーたちに場所を知らせる避難塔が強清水の忘れじの丘に建っている霧鐘塔なのです。ここから見渡す限り開けた草原が霧ヶ峰のグライダーの飛行場になっています。青空に澄み渡ったグライダー場に沿ってのハイキング道をさらに南へと歩き続けます。

池のくるみ(踊場湿原)
車山・霧ヶ峰高原一帯は八ヶ岳火山より以前に噴火した火山地帯だったのです。長い年数が経ち風化が進みなだらかな丘上になっているため一見しただけでは火山の山だったとは分かりません。かろうじて車山の南側の断崖に爆裂火口の痕跡がみられる程度です。その車山・霧ヶ峰火山の風化により火山灰土が泥炭状となり特に湿地帯では他にはない貴重な植物群生地になっています。
先ほどの霧鐘塔の忘れじの丘からようやく目的地の池のくるみ(踊場湿原)に辿り着きます。池のくるみという可愛い名前の湿原には低層・高層の二つに湿原植物が自生しています。高層部の泥炭層は三千年をかけて堆積したのがやっと2,3mとのことです。ここにはスゲの根が泥炭状になって持ち上がり谷地坊主(ヤチボウズ)という現象もみられます。

蓼科高原から白樺高原経由の車山・霧ヶ峰高原のロマン的な優しい地名の場所を秋空にぽっかりとのんびり浮かんだ白い綿雲を眺めながらのウオーキングは日々の慌ただしさを忘れさせてくれた大自然に感謝です。それぞれに特色のある素晴らしいネーミングの場所の山歩きは貴重な体験をすることができ明日に繋がる山旅の一日となりました。(高)

実り始め

皆様、残暑お見舞い申し上げます。
秋口に入りましたが、まだ気温の高い日が続いています。
しかし、徐々にですが、秋らしさを感じられる光景が見られます。

栗。山でキノコと並ぶ代表的な秋の味覚です。まだイガが青いですが、段々と育ち茶色に変色したころ、艶やかな栗の実が見られます。

次はクルミです。果実が生り後は落ちるのを待つばかり。この間、リスが房ごとクルミをを咥えて運んでいました。

最後にヤマブドウです。こちらは既に色づき、ほぼ熟している状態です。

今回は3種類のみでしたが、他にも沢山の植物が秋に向けての準備を始めています。

わくわくコケ観察

小さな天然アート❣

 

普段はその存在に気づかなくても
ふと視界に入ると何だか癒される・・・コケ
近寄って間近で見てみると意外なほど美しく繊細な姿をしています
蓼科ではどのような種類のコケを見ることができるのか探してみましょう!

今回は「コケ」の仲間3種類を紹介します

 

キヨスミイトゴケ(木の幹や枝などで見かけます)

 

ウマスギゴケ(日陰の湿ったところに群生しています)

 

アカミゴケ   通称:【モンローリップ

ひと際赤色が可愛らしかった石についたアカミゴケ

 

 

先端の真っ赤な部分をマリリンモンローの唇になぞらえて『モンロー・リップ』と呼ぶそうです。

 

身近な場所で好みのコケを見つけて観察してみてはいかがでしょうか?

 

秋の訪れ。。。。