戦国武将 真田幸村

上田城については2023年春号のビレッジニュースの中で要害堅固な城郭とその周辺の虚空蔵山、神川の地形や城下町の複雑な路地・迷路を活かし、また武士のみならず町民や農民との一丸となった戦いで徳川秀忠軍に勝利し関ケ原合戦へ参戦させなかった史実について戦場の様子をリアルに克明に掲載されましたので今回は真田一族の立役者でいわゆる真田幸村の一面についてもう少しもう一歩戦国の世が蘇る上田城の虎口櫓門へ足を踏み入れてみます。

真田一族の古城
はじめに現在の上田城が築かれる以前の真田氏発祥の地、真田・菅平地方を訪れてみます。鎌倉時代以前から信濃の国が統括する菅平牧野の国牧責任者で国府の有力者として仕えていた。やがて国牧から私牧に代わりそこを基盤として土豪になり成長していきます。その後真田や菅平地方の防備を築き上げるため大規模で中心的な(真田本城)を造りさらに周辺に数多くの山城を築くことによって地盤と権力を強固にしていったのが勢力拡大の始まりでした。
長い年月が経った今、当時と同じ山城(本城)の場所で現在城郭は無いものの哀愁帯びた石垣や土塁の城跡に佇んでいると何処ともなく「古城」や「荒城の月」の曲が風に乗って聞こえてくるような気がします。

-古城-              -荒城の月-
松風さわぐ   丘の上      春高楼の   花の宴
古城よひとり  何しのぶ     巡る盃    影さして
栄華の夢を   胸に追い     千代の松が枝 わけいでし
ああ仰げば侘し 天守閣      むかしの光  いまいずこ
くずれしままの 石垣に      天上影は   替らねど
哀れをさそう  病葉や      栄枯は    移る世の姿
矢弾のあとの  ここかしこ    写さんとて  今もなお
ああ昔をかたる 大手門      嗚呼荒城の  よわの月

真田幸隆
歴史上初めて真田氏という名前がでてきたのは武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍と戦いをした海野平の合戦天文十年(1541)でした。この戦いで敗れた一族は上州へと逃れその時の中心人物が真田氏当初の真田幸隆でした。その後幸隆は武田信玄と手を結び武田氏と共に力を付けていきます。こうして真田氏は勢力を伸ばし幸隆の子昌幸が天正十一年(1583)本能寺の変の翌年、山城と異なって平地にいわゆる平城(上田城)と防御を兼ねた城下町を築くのです。現在の上田城は「古城」や「荒城の月」と違って今もなお当時の栄華を咲き誇っているのです。

関ケ原の戦いと真田親子
戦乱の世で真田一族の子孫を残すべく家督継承のために関ケ原の戦いでは徳川方には兄信幸(妻は家康の重臣である本多忠勝の娘小松姫)、一方豊臣方には父昌幸(妻は秀吉の重臣である宇田頼忠の娘、また石田三成の妻も宇田頼忠の娘、ですから昌幸と三成は義兄弟ということになります)と弟信繁(幸村)(妻はこれまた秀吉の重臣である大谷吉継の娘)という姻戚関係からか徳川方と豊臣方に分かれることになったことについては納得です。
徳川秀忠軍が関ケ原の合戦に行く途中、豊臣方の上田城を攻略して行こうとした秀忠の軍3万8千を昌幸・信繁(幸村)は出城戦法を生かして2千5百で撃退した史実は有名です。これにより一躍天下に昌幸、信繁(幸村)親子の名を挙ることになるのです。この戦場の場面についてはビレッジニュースに掲載されてありますので参照していただければと思います。

大坂冬の陣
このように上田では徳川軍の関ケ原への参戦を阻止したのですが天下分け目の関ケ原の戦いでは豊臣方が敗れたため石田三成をはじめ多くの豊臣方の武将が京都六条河原で処刑となった。一方昌幸・信繁(幸村)親子は徳川方の兄信幸と妻である小松姫の父本多忠勝の必死の嘆願により本来死刑になるところを高野山(九度山)へ流され幽閉されるという減刑で済みます。
それでも世の中は依然として完全には徳川の天下ではなかったのです。信繁(幸村)が蟄居されること14年目に人生最大の転機を迎えます。家康から信濃の国全土を与えるので大坂城攻めの味方になって欲しいとの誘いを断り、一方豊臣秀頼方からは大坂城の守りへの加勢依頼が訪れた。信繁(幸村)はこれに快諾し大坂で本城の南に出城(NHK大河ドラマでのいわゆる真田丸)を築き決戦に備えこの真田丸が本領を発揮して徳川勢を退却させ勝利へと導くのです。実は真田丸は上田城で勝利した父昌幸が考案した戦法を受け継ぎ採用したものなのです。この上田城では三の丸の左右に二つもの真田丸を用意していたのです。また普段は空堀で広大な庭園にしていた百間堀へは川からの取り入れ口より水を流し込み広大な湖を準備して戦いに備えて用意周到だったのです。

大坂夏の陣
ところが冬の陣の後德川軍が退却する代わりに二の丸・三の丸を埋め立てるという和議がおこなわれた。豊臣側はこれで戦いが終わると思ったのでしょうか徳川側のこのような策略の和議を結んでしまったのです。しかも冬の陣で活躍した真田丸も取り壊されたので当然戦う前から不利であった。それでも信繁(幸村)は戦略をたて家康の本陣へ六文銭の旗を背にたなびかせ息子の大助と共に果敢に突撃するも最後は討ち死にとなってしまうのです。(家康に突いた幸村の槍は家康の目の前でピタッと止まる。そのわけはたとえ家康をここで討ったところで主君の秀頼が亡くなってはこれから先生きていく意味も希望もない、最期は壮絶な死を選んだ方が武士として幸村として本望だと決断したのだ。)という仮説や逸話のロマンも生まれたのです。こうした勇猛な信繁(幸村)の戦いぶりに対し家康も死を覚悟したほどであったとのこと。そして敵方からも「真田日本一の兵(つわもの)いにしえよりの物語りにも無きの由」と賛辞が贈られたのでした。

真田十勇士
こうして関ケ原の戦いと大坂城攻防後、戦乱の世は収まり戦いのない江戸(徳川)時代へと移っていくのです。
戦国の真田信繁(幸村)の元で猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊佐入道・海野六郎・根津甚八・由利鎌之助・穴山小助・筧十蔵・望月六郎らの十勇士は戦乱の世でそれぞれの得意の戦法で大活躍をします。しかしこの十勇士の中には実存した人物もいたが想像上の人物も含まれていたのでした。これには後々の人々が英雄者に対する夢とロマンをもたせた伝説や逸話から生まれたものと思われています。このように真田上田城は「真田三代記」・池波正太郎「真田太平記」・NHKドラマ「真田丸」・直木賞作家今村翔吾「幸村を討て」など数多くの物語りでその魅力が今日に伝承されています。
幸村をはじめ十勇士が武術を鍛え修行したといわれる菅平の根子岳・四阿山、真田の角間山、上田の烏帽子岳へ今度は歴史的背景をもって登ろうかと思っています。山好きな岳人にとって多様な面からの山への魅力と憧れはいつになっても尽きることはありません。

真田幸村
そこで不思議なことは真田信繁がいつのまに真田幸村になったのでしょうか。
真田信幸は昌幸の長男であり真田信繁は次男であることは史実のとおりです。また歴史上の史料にも一切「幸村」という名前は出てこないのです。このことについてはおそらく後々ヒーローに対して語り継がれていくうちに幸隆・昌幸・信幸の「幸」をもらっていわゆる「幸村」と美化され伝承されていったのではないかと想像されています。ですから幸村は架空の名義で史実では信繁なのですが、後世になって幸村という名前があまりにも有名になったため史実とロマンの両方を重んじてあえて真田信繁・真田幸村の二つの名前を今日でも用いているのです。一方長男の信幸は関ケ原の戦い後徳川方に気を遣い一族の「幸」を消して「信幸」から「信之」とした事は史実のとおりです。

真田三代
真田幸隆が武田信玄に臣事し勢力を持ちその子昌幸が上田城を築城、昌幸・幸村親子が徳川軍を二度も撃退。そして昌幸の死後幸村は大坂城の戦いで大活躍したのであった。
一方徳川側に味方した昌幸の長男信之は父昌幸や弟幸村また妻の小松姫までも亡くしながら親子、兄弟、家のために耐え忍び家督を守り抜き江戸末期まで続く徳川政権の基礎固めに貢献し、十万石の初代松代藩主として君臨することになります。
上田城の隣にある芳泉寺には信之の妻小松姫の墓と真田氏の次の城主仙石氏の霊廟とそれぞれのエピソードの立て札があり当時の一面を垣間見ることができます。

このように四百有余年を過ぎても真田一族の栄華を思い馳せる史実とロマンに溢れた戦国上田城と戦国武将真田幸村の魅力は今もなお私たちの心を惹きつけ続けているのです。
さらにビレッジが立地しているこの地を真田氏が甲斐の武田氏やビレッジの地元諏訪氏へたびたび通った蓼科高原の歴史的な場所に現在私たちも今同じ場所にいると思うと真田氏の歴史を彷彿させる感慨深いものがあります。

皆様方もあの幸村が城内の何処かで私たちを見守ってくれていると思われる上田城へそして史実とロマンの戦国武将幸村の思惑や生き方についても想像しながら散策することによって永遠のヒーロー幸村という人物像をさらに知る第一歩となると思われます。(高)